三刀屋城の最後の城主、三刀屋久扶の三男として生まれ
京で行われた秀吉主催の醍醐の花見に父、久扶が毛利輝元に
従って上洛したとき、徳川家康に謁見して囲碁の相手までしたのが
輝元に咎められて追放された、其ののち孝祐は三刀谷氏再興の執念に
燃えた。
朝鮮の役にも参加し漢城、開城まで進撃した、2回目の慶長の役では
蔚山城の攻防では第三郭守備を引き受けて死守した、この働きに
秀吉からの御朱印の感状が下附されている。しかし恩賞は朱塗りの盃と
「左文字」の刀一振りであり憤然と怒った孝祐は毛利家を辞して京都の
吉田山に籠った。
家康と三成が対決したときは、細川幽斎が籠る丹後田辺城を八条宮智仁
親王の命をうけ五十五騎で駆け付け一万七千の囲みを破り幽斎こもる
田辺城を守った。
私は全く、知りませんでした。展望喫茶に置いています。